1)
1)
2)
2)
3)
3)
D-1
D-1
D-2
D-2
D-3
D-3
D-4
D-4
D-5
D-5
D-6
D-6
F-1
F-1
F-2
F-2
F-3
F-3
H-1
H-1
H-2
H-2
H-3
H-3
J-1
J-1
J-2
J-2
J-3
J-3
J-4
J-4
J-5
J-5
J-6
J-6
X-1
X-1
X-2
X-2
X-3
X-3
X-4
X-4
X-5
X-5
X-6
X-6
Y-1
Y-1
Y-2
Y-2
Y-3
Y-3
この森は、市街地のすぐそばの小さなな山に残された小さな森です。まずは山の全景を紹介しておきましょう。(2020/9/28)
1)2020/8/26 6:25
2)2020/11/11 6:31   真っ赤な紅葉は朝日の色
3)2020/11/11 7:26 それでも一部色づいている
<つぶやき>
2)おはようございます。今日は久しぶりのテレワーク(近頃少し立て込んでいたのです)。いそいそと早朝の"この森"散歩。6時半です。いつの間にやら、この森は、紅葉で真っ赤に色づいていたのでびっくり。ここから見える森は照葉樹林帯なのでそんなはずはないのです。この真っ赤な"この森"は朝日のせいなのです。朝焼けの森ですね。
3)1時間後の720分ごろの写真。真っ赤ではなくなったが、それでも部分的に色づいています。実は、森の中に入ると目に見える低い部分では紅葉はほとんどありません。つまり樹の高い先端(15m以上かな)が色づいているわけです。となると色づいている樹は何かが問題です。それを探すのが次のテーマになりそうです。(2020/11/11)

定点観察の樹の場所を示すのに次の区分をしています。この森は、エリアによって異なる樹相があるので、ここでは各エリアごとの森の様子を紹介します。
なお親サイトの「01この森は、、」にも森の様子が時系列に掲載されていて、そこにもこの区分を表示していますので、これも参考にしてください。
A 東道 B 女坂 C 男坂 D尾根道 E 西道 F いつものベンチ G 裏女坂  Hケヤキ道    I 東中道  J 裏男坂 K裏東道 L奥尾根道   M北の森 N西の森 Xこの森からの風景 Yこの森の周辺


この森の南側(海側)が、東側から順に、A 東道、I 東中道、B 女坂、C 男坂、E 西道となります。このうちスダジイタブノキの巨木(直径1m程度)が多いのが、B 女坂、C 男坂、E 西道です。文中、よく照葉樹林の中核と表現しています。A 東道、I 東中道はそれに比べると巨木は少なく、コナラムクノキの落葉樹も混ざる若い照葉樹林です。また、トベラなどの沿海性樹木も多いのも特徴的です。
北側は、東から順に、K裏東道、Hケヤキ道、J 裏男坂、G 裏女坂となります。いずれも落葉樹林帯ですが、低木層には照葉樹林も多く、アラカシなどの幼木もたくさん育っていて、いずれ照葉樹林になることでしょう。K裏東道、Hケヤキ道の周辺は人工林のスギがまだ残っていて混交林の状態です。
尾根を、D尾根道と L奥尾根道に分けたのは、特に意味はなく、通常、尾根の草地にあるF いつものベンチで、ゆったりと過ごすので、その東側と西側に分けたにすぎません。尾根ですから、東から西へ歩くと、左が照葉樹林、右が落葉樹林となります。そう厳密には分けられませんが。Fいつものベンチは、広い草地で、ここは落葉樹林帯となります。
では、順次エリアごと様子を以下、紹介することにします。いずれ地図も掲載したいと思っています。

A 東道
B 女坂
C 男坂
D尾根道
D-1) この山はいくつかのピークが連なる山脈となっています。A東道から登ったピークが山脈の東端、そこから東天照→大堂→八俵山→Fいつものベンチの草原と続きます(今思うと範囲を広く取り過ぎました)D-1Fいつものベンチの草原へと続く最後の登りです(2021/6/1 この項、続く)
<D2- なんとここは山城だった!>
D-2) なぜ山城か(「山旅の想い出」d)、の続きです。最近、中世の本を読んでいたこともあるが、決定的だったのは、通い出して3年目に入ったいつもの"この森"が山城だったことを知ったことでした。これは驚きでした。もう百回以上歩いているのになぜ気が付かなかったのでしょう。何回か紹介していると思いますが、これが"この森"の尾根道です。いまは樹が生えているので分かりにくいですが、両側とも切り立っています。ここを進むと、、、
D-4) "この森"の尾根道を行くと、橋が見えてきます。この橋を渡り、さらに進むとすぐ山頂に至ります。しかし何故ここに橋があるのでしょうか。今までなんの不思議に思っていませんでした。しかし、よく考えるとおかしいのです。尾根道が切れていることは、普通のことでしょうか。
D-5) これまであまりその名前を言ってませんでしたが、"この森"は高麗山と言います。「神奈川中世城郭図鑑」という本をめくっていたら、「高麗山城」というのが目に飛び込んできました。何??。間違いなくこの高麗山を指していました。この山の山頂付近がまるまる山城だったというのです。その証拠の一つがこれ。これは尾根からの進路を防ぐ「堀切」だったのです。写真のように底の方は埋まっているようですが、かなり深く削ってあります。山城のため岩を削ったが、それを元に埋め戻せなかったので、そのままにしてあるということでしょう。こうした「堀切」が3か所確認できました。ちなみに、同書によると、戦国時代、伊豆と相模西部を支配した後北条氏の伊勢宗瑞(俗称北条早雲)が、1509年にもともとあった高来寺を転用して山城とし、東の扇谷上杉朝良と敵対したといいます。寺社の施設と自然の険阻を頼みに最小限の普請を加えて、山城として成立している、とありました。同書の「縄張り図」を見ながら感心してしまいました。全国の山城の数は3万とも4万とも言われます。低山の山という山にありそうです。山城ハイクも楽しそうです。(2022/5/6)
E 西道
F いつものベンチ
"この森"で、広い草地になっている場所があります。こちらは尾根筋に展開していてかなり広く、ベンチが散在しています。写真F-2はその一部分ですが、正面の樹はクヌギです。この左の奥に"いつものベンチ"があります。明らかに何らかの理由で森を伐採したか、火事で焼けたかで森がなくなったんだと思います。ただその理由は明らかにされていません。今は、そこにベンチを置いて、定期的にベンチの周りを藪払いして草地のままを保っている。
この草地は、森の中に比べて野草も多くて、私たちの眼を楽しませてくれます。今日はヒガンバナと後ろに白いヒガンバナ、さらに黄色のキンミズヒキが咲いていました(F-3)。このうち白いヒガンバナ(シロバナマンジュシャゲ)は、本来の分布地域(九州)ではないので誰かが植えたのかもしれません。しかし、いずれもこの森の他の場所でも多くみかけましたので、すでに野生化されているといってよいでしょう。樹木さえも栽培品種が野生化することがよくあるといいますので、自生に含めてもよいかと思っています。ところがなのです。解釈に苦しむ樹を見つけてしまったのです。
関東には決して分布しないナギがあったのです。ナギは紀伊半島の樹。熊野の樹で、それより東や北には分布しないのです。熊野信仰に関係あるので神社によく植えられるようですが、関東では寒さ対策をする必要がある。つまりこの樹は、この場所で誰かが大切に育てたのです。どういうことか。想像だが、この場所は元は「公園」だったのではないか。今は、自然保護の網がかかっていて伐採も植栽も禁止されているけど、かつては公園としていろんな樹が植えられたのではないか。定点観察は自生を原則としたいと思っていたのですが、軌道修正を図る必要がありそうです。思えば、丹沢の標高が高い崩落地でも山を守るためよく植栽が行われています。その時、よく言われるのは苗は必ず丹沢産のものを使うこと。ナギが植えられたのが何十年前かはわかりませんが、その時はよく考えていなかったのでしょう。公園ならなおさらです。一応、方針としては、明らかに植栽と考えられるのは明示すること、そして植栽が怪しまれるときは他の株を探すこと。離れた場所に2株以上あれば、自生か野生化かどちらかと考えられるからです。(2020/9/28)
G 裏女坂
Hケヤキ道
H-1、H2  2020/9/20
H-3  2021/1/23

H-1) 定点観察が難航しながらも今日も飽きずに"この森"に。ここで樹木同定難航の一端を紹介したい。写真H-1は、雨の日に行く東屋からの風景です。何回か紹介していますね。昔は山一帯が大きなお寺で、だからこそ森が残ったのだが、この場所には僧坊が存在したと言われています。平安時代ごろといいます。今は建物はなくなったが、広場として残り東屋が建てられています。平安時代は庭だったのかもしれません。しかしここから見える樹は、正面の大きいのが、ケヤキ、その右の低いのがイロハモミジ、その手前の高いのがヤブツバキ、ケヤキの左がムクノキ、その手前がモクレイシです。いずれも"この森"でよく見かける樹たちです。かつて庭として植栽されたとしても、近くの樹を植えたのでしょう。私の定点観察の目的は、あくまで"この森"の美しさの解明なので、植栽された樹は含めるつもりはありません。つまり自生を原則としたいのです。ただ、この場合は、この森でよく見かける樹ばかりなので許容範囲内です。(2020/9/27
)
H-3) 今朝は冷たい雨。しかし今週は仕事が少し慌ただしくこの森に中々行けなかったので、登山用雨具を着込んで、突撃。しかしうっかり手袋を防水のにしなかったため手が凍りそうである。絵になる風景は流石にないが、発見もないことはなかった。それは後ほどということにし、これはケヤキ林の中の広場。正面がケヤキですね。葉を落とすと小さく見えます。その右はイロハモミジの枯葉姿。その右がヤブツバキで、その前にスイセンが咲いています。(2021/1/23)

 I 東中道 
J 裏男坂
J-1) 森の北側、特に急斜面の個所です。恐らく右側の崖が崩れたのでしょう、ここだけ森に穴が開いていて、おあつらえ向きに倒木が"自然のベンチ"になっているのです。ここに座って正面(写真の右側)を見ると、J-2)ケヤキの写真になります。(2021/6/12)
<大崩落>(J-3)-(J-6)
J-3) 日曜の仕事はやはり疲れる。この森に夜に行って"眠ったネムノキ"でも見に行こうかと思ったが、やめにした。先週の大雨/長雨で大変なことになっているのだ。これは長雨が終わってすぐのこの森の写真です。山の北側の周回道です。あれまあ、立ち入り禁止。この森は県有林なので、しっかり管理されていて、少し道が荒れると立ち入り禁止にしてすぐ修復している。大抵通れるので突破してみた。するとなんと。。。
J-4) ここは谷を巻くように道が左に曲がっています。左の奥に道が見えますね。そこに大木が落ちてきていて完全に塞いでいます。正面の崖はかなりの急斜面なので、大雨/長雨に耐え切れず倒れてきてしまったのでしょう。樹の高さ15mくらいかな。周りの樹も巻き込んでいて大量の倒木が重なっています。こうなると完全に通行不可です。幸い土砂は崩れておらず、道は原型を保っています。樹がなかったら土石流になっていたことでしょう(この下には人家もある)。この樹は身をもって山を守ったと言えるかもしれません。この倒木を取り除くのも大変なことですが、道が崩れるのに比べれば軽症です。こう感謝して引き返してきたのでした。■しかし豪雨直後の山は怖いなあ。この山は抜け道がたくさんあるから別の道を使えばよいが、一本道の縦走だと、進めないと大変なことになる。山に行かれる方は、いま各地でこういうことが起こっていると思うので、情報収集を怠りなく。(2021/8/22  写真は8/20)

K裏東道
L奥尾根道

Xこの森からの風景

X-1) 今日はスカッと快晴。たまには森を抜けて展望を楽しもうと、この森の西の端まで行きました。といってもいつものコースから15分ほど歩けば到達してしまうのですが。ここは富士見のための展望台で車で直行できるので大人気です(人混みを避けるためあまり来なかったのですが)。富士山からそれなりに遠いけど、絶妙な位置にあるんですね。富士見のポイントは裾野に邪魔者が入らないこと。ここから富士山の間には市街地が広がっているけど見えないんです。富士山の手前は箱根山塊です。左側のとんがりが矢倉岳(標高870n)。ずーと左には金時山(1212m)が見えます。そ2つの間の凹みが万葉集にうたわれる足柄峠です。その辺りまで行くと、まさに富士山は眼前に聳えています。しかし、沖縄づいている今の私には、山よりもむしろ。。。
X-2) 富士山から視線をずーと左に移すと、伊豆諸島が見えます。沖縄づいている今の私には、山よりもむしろ島が気になります。正面の大きな島が伊豆大島。ちょうどここから富士山までの距離と同じくらいでしょうか。そしてその右に島が3つ見えます。これが微妙です。極小-中-小とならび、高さは低-高-中です。位置的な順番では、左から利島-新島-式根島ですが、利島が一番標高が高いんです。だから、新島が裏に隠れてしまって、一番右に見えているのは神津島かもしれません。伊豆諸島そして琉球諸島に行きたいなあと思いを馳せるのでした。(2021/11/28)
X-3) 伊豆半島と猿島です。
<F いつものベンチから>
X-4) いつもの森の隙間から見えた富士山です。いつも来ているのに、この地点から見えるとは思っていなかったので、びっくりでした。落葉する前はもちろんのこと、落葉した後もです。微妙な角度なんでしょうね。一週間の疲れが吹き飛びます。(2022/2/19 F)
<J  裏男坂から>
X-5) 先日、この森の隙間から見えた富士山を紹介したが、今日はもっとよい富士見の場所を見つけた。ここなら座ってゆったり眺めることができる。ここも葉が落ちた冬だけなのだが、それにしても何故、百回は通ったはずの場所を今頃になってなのか。そもそも冬は空気が澄んでいると言っても、午後になると大抵は富士山は雲に隠れてしまう。いつもこの森に行く土曜日は1週間の疲れもあって、大抵寝坊をして昼前後になってしまうのだ。今日は水曜日なので、久しぶりに早く行ったというわけ。といっても9時過ぎなのだが。寒いとはいえ、早起きするのがいいなあ。(2022/2/23 J)
X-6)この森から丹沢山塊を眺める。右が大山、左の奥の雪を被っているのが恐らく丹沢山。平安末期から鎌倉時代の史跡というか正しくは伝説を語る旧跡を、近所でよく見かけるので気になっていた。土肥・岡崎・土屋・曽我・波多野氏らは、いずれも地名が残っている。平安末期になってようやく歴史に名を刻むようになった地域なんだろう(その前は万葉集の足柄に飛んでしまう)。この際だから鎌倉時代をしばらく追ってみたい。(2022/3/1 J 写真は2/18)

Yこの森の周辺
「鎌倉殿と執権北条氏: 義時はいかに朝廷を乗り越えたか 」(NHK出版新書 661) を読んで。 本書に直接関係はないが、感想で触れた「曽我物語」の史跡。虎御前がこの井戸水で化粧をしたと伝わる井戸。いつも散歩している森の周辺には、こういう史跡(というか伝説)が解説看板付きでたくさんある。(2022/1/28)



You may also like

Back to Top